顧問 森 孝慈
選手名: TAKAZI MORI
生年月日: 1943.11.24
身長: 173cm
体重: 70kg
出身・所属: 早稲田大学→三菱重工業
1967年、日本サッカーリーグ (JSL) の三菱重工(現浦和レッドダイヤモンズ)に入団。杉山隆一、横山謙三らと共に主力選手として活躍し、1969年には当時日本リーグ4連覇中だった東洋工業を破り初優勝を遂げた。JSLでは通算146試合出場、28得点。また日本代表でも、1967年のメキシコオリンピック予選前からチームの中力選手となると、メキシコオリンピック予選第1戦から1968年のメキシコオリンピック本戦、ワールドカップ・メキシコ大会予選・本戦、1970年バンコク・アジア大会にかけて国際Aマッチ32試合連続出場。これはメキシコ五輪世代ではダントツ1位で歴代でも3位(1位井原正巳42試合、2位三浦知良36試合)にあたる。国際Aマッチは計55試合出場2得点の記録を残し、メキシコオリンピックの銅メダル獲得にも貢献。
経歴: 引退後は、日本サッカー協会の指導者としてエリートコースを歩む。1980年西ドイツ留学から帰国後、川淵三郎監督下でコーチ、ワールドカップ・スペイン大会アジア予選の敗退で、翌1981年からは川淵の後を受け日本代表監督に就任。理論派と評され「日本の切り札」として期待はかつてないものであった。
森は既成概念にとらわれることなく、2部リーグや大学リーグにも足を運んで選手をピックアップ、これまでにないチーム作りを行った。また代表チームの報酬金や宿泊ホテルの改善などにも尽力。1982年ニューデリー・アジア大会では韓国を初めて国外で破り、親善試合においてオランダのフェイエノールトやブラジルのコリンチャンスの海外の強豪クラブを破る成果を見せたが、肝心のロサンゼルスオリンピック最終予選では連敗を重ね敗退した。
名誉挽回で挑んだワールドカップ・メキシコ大会アジア予選では快調に1次予選、2次予選を突破。1985年10月の最終予選に進出し、ワールドカップ出場まであと一歩まで迫ったが宿敵・韓国の前に敗れ去った。
この当時の代表チームは守備の加藤久、中盤の木村和司、前線の原博実、水沼貴史らを擁し強い結束力を持ち合わせた事から森ファミリーと呼ばれ、「ドーハの悲劇」以前に最もワールドカップに近づいたチームとしてサッカーファンの間で語り継がれている。森は「韓国と日本の差はプロで有るか無いかに尽きる」と明言。完成度の高かったこのチームの敗戦によって、森を始め日本サッカー界全体がプロ化の必要性を痛感したものの、森の協会へのプロコーチとしての契約要求は受け入れられず、1986年辞任をした。
浦和レッズ創設に尽力
その後は三菱重工の人事部に戻りサッカー部副部長兼総監督。1988年、兄・健兒と木之本興三が設立したJSL活性化委員会(プロリーグ化検討委員会、のちのJリーグ)に参加。三菱重工社内にもサッカー部プロ参加を嘆願、サッカー部の三菱自動車工業(以下、三菱自工)移管に関わる。社業としてドイツの事業所駐在が決定していたが三菱自工の清水泰男(のち浦和レッズ社長)の要請で1989年7月、三菱自工に転籍。サッカー部プロ化に対して、社内の反応は冷ややかだったといわれるが、サッカー部のプロ化、立ち上げの中心人物として奔走した。1990年9月、浦和青年会議所が中心になって「浦和プロサッカー球団をつくろう会」が発足、浦和はホンダの誘致が決定的だった。しかし同年10月、ホンダが浦和の誘致を断わったため川淵三郎の仲介で「つくろう会」のメンバーと11月、西が丘サッカー場の近くのファミレス・すかいらーくで会う(森はそれ以前に浦和の関係者と何度か接触はあった)。当初から浦和はリストアップしていたが、浦和はホンダで決定的だったため諦めていた。渡りに船のこの話に、この後は急ピッチに浦和レッドダイヤモンズ創設、Jリーグ入りが決定した。
レッズ初代監督
1992年から同チームの監督に就任。当時のクライフ監督率いるFCバルセロナが採用していた3-4-3の超攻撃的フォーメーションで挑み、1992年は天皇杯で準決勝まで進出した。しかし翌1993年にJリーグの公式戦が開幕すると、システムが相手に研究され尽くした事と補強の失敗、故障者続出でサントリーシリーズ、ニコスシリーズともに最下位を独走し辞任した。シーズン終了後の総括では「3年分は負けた」と語った。
1995年から1997年は横浜マリノスのゼネラルマネージャー、1998年はアビスパ福岡の監督を務め、J1参入決定戦で辛うじてJ1に残留、1999年から2001年はアビスパ福岡のフロントを務めた。2002年から浦和レッズのGMに就任。大幅補強により2004年、浦和にステージ初優勝をもたらした。2006年1月31日をもってGMを退任
2006年、第3回日本サッカー殿堂にて委員会投票により掲額され殿堂入りを果たす。
2008年からは神奈川県横浜市を本拠地とするクラブチーム横浜GSフットボール・クラブの顧問を務めている (Wikipediaより)
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